20年前の2003年イラク戦争が起こったときには日本に居た、それまで2001年にはそろそろイラク、キシュの遺跡発掘も出来るのではないかとキシュに来たのだが、発掘を9月1日に始めて、ようやく面白くなってきたという矢先にアルカイダによるアメリカのツウィンタワーへの突撃があり、我々は大学からも、大使館からも帰国せよとのことだった、しぶしぶ急遽早朝に遺跡の埋め戻しをして帰国することにした。今でもこういうときは判断に苦しむ。まだ発掘を続けたいのだが、大学や家族、周りの人に迷惑掛けるなと言うことで、命令に従うしかなくなる、この帰国のときにも、考古遺産庁に行って帰国の報告をして帰ろうとしたとき、オーストリアのヘルガ教授に出会った、あら何してるの?と聞かれたので、ツウィンタワーへの突撃で帰国しなければならないと、答えると、何と彼女は”何言ってるの、私は今からボルシッパの発掘に行くのよ”
であった、この自己責任の持ち方取りかたである。後々にも、そして今も、この責任論が付き纏う。日本には自分の言動は自分で責任を取るという習慣があまりないようだ、常に世のため、人のためと、皆で、皆でと正しいことを言うものの、それは責任逃れでもあるように思える。その後は次はイラクだといううわさが飛び交い、それが日に日に増していき、それが現実となり、イラク戦争になっていった。イラク戦争が起こる確率が強まった頃、アメリカかのギブソンシカゴ大学教授が今からブッシュ大統領にイラク博物館に攻撃をしないよう嘆願書をだすから、サインしてくださいとのメールがあって、その時イラクにおける外国隊発掘調査団長がほとんどサインしたのですが、戦争が3月20日に起こり、米軍はクウェートからユーフラテス川の西の砂漠地帯を北上して行き、バグダッドの街中に突入した。その時何が起こったのか、博物館を守っていた学芸員もあまりにも、先頭の激しさに身の危険を感じ、自宅退避を2日間したそうだ、そしてその間に、米軍の博物館防護も無く、略奪が起こって貴重な至宝がなくなってしまった。その略奪の様子がテレビで全世界に映し出されて、皆、愕然とした。しかも博物館の周辺に住む子供たちである、それを博物館学芸員が叫んで追い出していた。これに加えて各省庁のあるビルからいろいろなものを持ち出している様子が流れた。そして米軍は先ず何よりも石油省のビルを完全に制圧した。そして5月10日にはブッシュ大統領は戦争終結宣言をおこなった。ユネスコは戦争後の文化遺産の状況を調査するためにイラクの文化遺産の専門家をイラクに派遣した、私もその派遣団の一人として、2度、派遣された、一回目はバグダッド、2回目は北はモスールから南はバスラまでの遺跡や大学博物館など視察した。そうしてユネスコにイラク文化遺産復興支援国際調整会議が何度も開催され、イラクに対し何ができるか、そして出来ることを進めていくことになり、日本も博物館の修復研究室の修復、イラク人の文化遺産研修などが東京文化財研究所によって支援がなされた、他方我々国士館大学にもJICAからイラクの文化遺産支援で協力して欲しいとの要請があり、2005年9月にアンマンにラジソンサスホテルで第1回の専門家会議が行われた。イラク側、日本側、ヨルダン側、そしてJICAの所長をはじめ多数の専門家、考古学、建築史。保存科学、無形文化財、博物館学が参加した。当時まだイラクは安定していなかったので研修がヨルダンと言うことになった。私は会議の中で、机上での理論の研修だけでなく、実際に遺跡を目前にして、具体的な環境調査また発掘調査、修復などを進めてはどうかと言うことを提案しをしたところヨルダンの考古庁長官のファワーズ長官が、それではウムカイス遺跡で、研修してはどうかと、進めていただいた、それでその会議が終わってすぐにタクシーでウムカイスへ向かい、実際に見てみた。それは列柱道路や円形劇場などでよく知られれている、ローマ時代の巨大な都市遺跡であった。この巨大なローマ遺跡を私は料理できるのか?と自問自答した。うわさでは、ローマ時代の建築は素晴らしいので、建築学の研究が進んでいるが、考古学は層位が撹乱していることが多く、また建築資材も何ども再利用されていることから、考古学的層位に基づく調査が難しいといわれていた。しかしやるなら層位学的に、丁寧に発掘を進めていくしかない、そうすれば、建築の様式、切り合い状況からの調査研究に加え、詳細な年代設定が出来るのではないかと思い、ウムカイス遺跡におけるイラク人の文化遺産復興に係わる研修を行うことにした。私の文化遺産の調査研究法の目的は単に発掘だけでなく、環境調査、発掘調査、保存・修復、活用を総合的に進めて、そして文化遺産の重要性を地域に啓蒙していくことである。こうしてJICAによる第三国研修、即ちヨルダンにおける戦後イラクの文化遺産復興のための研修が始まった、ローマ時代の専門家でもない私が発掘するのはその責任は重い。この思いは今も変わらない。だから、今こうしてウムカイスに居る。 つづく